「本ってどうやって読むの?」
長女が発したのは、そんな言葉だったと思う。
長女が幼稚園に入った4歳の頃のことである。
詳しく聞いてみると、幼稚園では日々、お友達同士でのお手紙のやり取りや、幼稚園図書室の絵本の貸し出しが行われており、当時字が読めなかった長女は、それらがきっかけで、字を読みたい、と思うようになったらしい。友達から手紙をもらっても読めない長女が、字が読めないから(手紙)いらないっ、と言って怒り出し、それを聞いた先生が、読めなくてもお手紙はもらっていいんだよ、とあせってその場を収めた話も今では笑い話だ。手紙をもらっても字が読めない、本を借りても字が読めないから面白くない、だから借りられないという日常がストレスだったのだろう。
字を読みたい、という長女の成長に、もうそんな年齢になったのかと驚きつつも、ちょっとだけ本好きな私としては、この機会を逃すのは惜しいなと思い、さっそく家にあった絵本を彼女に渡した。もちろん新しいものではなく、今までもさんざん読み聞かせていた簡単な絵本だ。本を開きながら渡して、本を読むのはそれほど難しくない、いや、それどころか長女はすでに本を読めるのだと私は説明した。
「いっつも読んであげてた本があるでしょ。よおく見てみるとほら、ここに絵じゃないものがあるよね、これが字だよ。パパはこれを読んでいたの、絵を見て適当にお話してたわけじゃないんだよ。あんたが絵を見てるときに私はここにある字を読んでいたの。」
「ふーん、そうなんだ。」
「そうだよ。でさ、この本のお話、あんた覚えてるでしょ?」
「うん。」
「それなら、あんたはもうこの本を読めるんだよ。」
そんな感じで私は、いつものように読み聞かせを始め、でも、いつもとは違い、文字を指さしながら1文字1文字をゆっくりと読んだ。小さい「っ」などが出てきたときには説明を加えながらなので、数ページしかない絵本1冊を読み切るのに数倍の時間がかかったが、とにかく絵本には字が書かれており、覚えている話の通りに字をたどっていけば、本は読めるということを教えた。
「だから、絵本を読むときには絵だけじゃなくて、字も見ながら読んでみれば、自分でも本が読めて面白いよ」
覚えてしまった幼児用ジグソーパズルを裏返しに遊ばせても楽しむくらいには1つのことをコツコツと続けられるしつこい性格に加え、とにかく字を読みたい!という強い欲望からなのか、彼女はすぐに本を読むようになった。最初はたどたどしかったものだが、気が付けば本棚の前に読み終わった絵本を何冊も積み上げ、さらに何周も繰り返し、ただ黙々と読むようになってしまった。
自称本好きならば経験があると思うが、面白い本は読み始めると、最後まで読み切らないと終われないものだ。時間の経つのも忘れて読みふけり、はっと気が付くと家じゅう真っ暗になっていたということもよくあることである。長女もご多分にもれず仲間入りを果たした。始終本を読むようになり、周りで次女がちょろちょろとしていようが気にせず、ほぼ上の空で返事をしつつ本を読み続けている。ご飯だと呼んでも顔を上げないというか、おそらく聞こえていないであろう様子を見かねた私が、
「本で心は満たせても、お腹は満たせないんだよ」
と、無理やり本を閉じさせたこともあった。
もちろん、家の絵本だけでは全てのひらがなについて教えることはできないから、「あいうえお表」を壁に貼ったり、「かるた」を買ってきて遊び始めたのも、この頃からだ。興味を持った時が始め時、である。というよりも、勝手に本を読んでくれるようになれば私が楽をできる、という思いのほうが実は強かったのだが。妻には私が異常に教育熱心な親のように見えたらしく、そんなものは必要ない!、と心の中で悪態をついていたらしい。だが、そんなせめぎあいも全く関係なく本をしつこく読み漁り、どうせまた本でも読んでいるに違いないと、まるで悪いことをしているかのごとく言われるようにまでなってしまった長女の様子を見た妻は、なぜ私が急にあいうえお表などを貼り始めたのか理解したと数年後に笑って語っていた。
幼稚園年長になろうかという頃の長女のお気に入りの本は「ぼくはおうさまシリーズ」だった。
小学生に入ると、学校図書館を利用するようになった。ひたすら本を借りては読んで返し、また借りるを繰り返す毎日である。借りられる曜日が決まっており週に約3回、上限は1度に3冊までで、もちろん長女は必ず週3回、3冊づつ借りていた。1年間で約200冊、当たり前のように1000冊越えだ。これを本好きと呼ぶならば、私など本好きだとは到底言えない。学校図書館を長女に勧めたのは私だが、後悔した。
たくさん読めばいいってものでもないだろうとか、読んでいるといっても絵ばかりの本でしょという声があるかもしれない。ちなみに長女が小学校低学年の時にお気に入りだった本は「青い鳥文庫の若草物語シリーズ全4巻」である。
家の本棚にも買った文庫本が並んでいた。三女が生まれてよちよち歩きを始めてからは安全対策のために泣く泣くスキャンして電子書籍化したが。「青い鳥文庫」や「岩波少年文庫」、「角川つばさ文庫」などには当時大変お世話になった。毎年クリスマスプレゼントにサンタクロースがくれたのは十数冊の本。それでいいのか長女よ、と思ったのは私やサンタだけではないはずだ。
中学校でも相変わらず本を借り続けていた。高校生になった今は図書局員である。いや、図書局を勧めたのは私だが。
あるとき、彼女が借りてくる本を眺めていて、ふと彼女に聞いたことがある。
「あんたって、殺人が起こるような推理小説とか、学校青春群像劇が好きでしょ。」
その通りだった。長女が借りてくる本のタイトルや見返し部分のあらすじや紹介文が、なんとなく似通っているのだ。
なぜ、好みというものが偏っていくのかはわからない。彼女の場合は推理小説か学園もの。今の私は実用書中心だが、ファンタジーが好きだ。そもそも本好きに今まで出会ったことがないので、一般的な本好きたちが必ず偏った好みを持つのか定かではないが、本ならどんな本でも好きという本好きは少ないのではないか、と私は考えている。これからも長女の本の好みが変わらないのかは謎だけれど。
学生時代は好きなだけ借りられるし、読書にも時間をかけられるが、大人になり社会に出るようになると、自分で買わなくてはいけないし、本を読む時間も少なくなるだろう。図書館の近くに住む、とでも将来言いだすのだろうかとふと考える。ただ、どんな未来になったとしても、彼女にとって本は楽しみであり、いつも寄り添ってくれる静かな友だちであり続けてほしい、と私は願っている。