なかなかやる気を出さない子どもに「おまえはやればできるはずだ!」と叱咤激励するのは今も昔も変わらずですね。前向き思考の良い言葉のように受け取られているようです。しかし、そんな事を言っても何の効果もない、むしろ逆効果だということはご存じですか?
子どもは気づいている「やればできる」の意味
子どもはまだ言葉をたくさん知らないために上手く表現できないだけかもしれませんが、「やればできる」という言葉が持つ本当の意味には敏感に気づいています。
日常生活の中で、「やればできる」という言葉は、やらない子どもに対してかける言葉ですね。「本当はやればできるのに、なぜやらない、やろうとしないんだ。本気を出せばできるはずだ」のようにです。
しかし、忘れてはいけない事実があります。「本当にできる奴は、やろうとしなくてもできる」という事実です。
子どもは「やればできるのに」という言葉をかけられたらそれを励ましや応援とは素直に取れません。勘の良い子なら低学年でも、高学年になればほとんどが完全に気づいているんです。少なくとも私が子どものころは「やればできる」を素直には受け取りませんでした。まあ、ひねくれているだけかもしれませんが。
でも、こう考えることはできませんか?やればできると言うけれど、やろうとしないからできないんじゃない。なぜなら、できる奴はやろうとしなくてもできる。けれど私にはできない。少なくとも今の自分には絶対にできないことだ。やろうとしないとできない、いや、やろうとすることにさえ努力が必要で、そうしないとできないのは、できる奴じゃなくてできない奴だから。努力したってできない事もある。つまり、やればできる、と言われたら、「オマエらはできないんだから、せめてやる気くらい見せろ、努力してる姿くらいしろよ、どうせできないんだから、それくらいしたって良いだろうが」と言われているのと同じだ。とまあ、こんな感じです。
はっきり言えば、子どもを侮辱しているって事ですよね。少なくとも私は侮辱だととらえていました。まあ、ひねくれているだけかもしれませんが、ってしつこいですね。
できないことは子どもだってわかる
子どもは生活の中のトライ&エラーで、できる事とできない事があると学んで理解しています。やってみたらできちゃったとか、やってみようかなと思ってやったらできたという事もあれば、やってみたけどできなかったとか、どうしてもやりたくないなと思うからできないということだってあります。
できるとできないの差には大きく個人差があって、ある子には易々とできることでも、ある子には何をどう頑張ってもできないこともありますよね。個人差はちょっとかもしれないし、歴然としているのかもしれないですが、確かに存在する差です。
やればできる、という言葉はその差を認めない言葉です。人との差は他人にとってはどうであれ、本人にとっては絶対的に立ちふさがっているもので、できないものはできないんです。
肉体的にできない
極端な例ですが、百メートル走を9秒台で走れる人もいれば、できない人もいます。
たしかに毎日トレーニングして走れる人の体に近づけば走れるようにはなれるかもしれませんが、それはすぐにできることじゃありませんよね。いつかはできるかもしれない、じゃあダメなんですよ。今、できなければ意味がないことに対して「やればできる」と言えば、それは応援じゃないです。「今のオマエには無理だけど、ずーっと努力し続けていれば、もしかしたらいつかはできるようになるかもな、ははは」と言うのと大差ありません。
精神的にできない
これまた極端な例えですが、路上で服を全部脱げと言われてもできませんよね。たしかにやればできますけど、「できるけれどやりたくないし、やろうとなんてしない」はずです。たいていの人がそうです。けれど、中にはやっちゃう人もいる。その差は何かっていうと羞恥心とか自尊心とかそういう精神的なものです。
どうしても越えられない、越えたくない一線が誰にだってあるものです。
その一線を越えられる人が越えられない人に「やればできる」の一言で越えさせる、あるいは越える必要のない立場の人が越えられない人に無理強いする。こういうのを応援とは言いませんよね。いじめという名の犯罪です。たんなるプレッシャーとは違いますよ。
やればできる!で、やる人もいるにはいるが
学校では常に集団心理というものに気を付ける必要があるでしょう。
確かに集団行動においては「やればできる」という言葉による扇動も一定の効果を現します。例えば歌う声が小さいからと言って「やればできるはずなのになぜもっと大きな声で歌わないんだ!」と教師、先生が言えば、学校組織という集団の中での絶対的な強者に対して逆らうことによる報復への恐怖心から大きな声で歌う児童や生徒が増えます。他の児童、生徒の大きな声につられて以前よりも大きな声で歌う者たちも出てきます。しかし、それは才能を伸ばした、という類のものでは全くありません。力で服従させたに過ぎません。やらなければヒドい目に合わされるかもしれない、という恐怖からくる防衛本能です。
「やればできる」に隠された意味は確実に子どもへ伝わっています。侮辱の他に「やればできるだろ、やらないと××するぞ!」と脅しが加わって、です。
「やればできる」が子どもを潰す
教育現場で使い古された「やればできる」という言葉。子どもの頃には必ず違和感を持っていたに違いないであろうこの言葉。それでも大人達が使う「やればできる」という言葉に対して、子どももそうなのかな?って思いながら同じように「自分はやればできるんだ」と使ってみることもあります。やっぱりできないこともあるし、できたこともあるでしょう。あの時は絶対できなかったのに成長したある時点からはできたとか、いつのまにかできなくなってしまったこともあるでしょう。「できないけれど頑張って頑張ってやらなくちゃいけない」と自分にプレッシャーをかけ、「とにかく逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ、やればできる、やればできるはずだ、やれ!できるまでやれ!できなくてもやれ!できるふりをしてでもやれ!」とその場をなんとか切り抜けられるだけの時間を我慢して過ごしてきたこともあるでしょう。少なくとも私はそうでしたが、やはりひねくれているからですか?
そういう中で「やればできる」は本当だし嘘でもある、ということを知りました。ようするにとても不安定な言葉なんです「やればできる」は。大人になった今の私はそのことを知っています。これは間違いですか?
でも、大人になって親になってなぜかその違和感や言葉の持つ不安定さを忘れてしまうのはなぜなんでしょう?自分の子どもや身近な子どもに対して安易な気持ちで「やればできる」と声をかけたり口にするのはなぜですか?
我々親は確かに子どもに教育する義務を負っていますが、それは親としてであって、集団行動を制する職業としての教育者である学校の先生達のそれとは違います。もちろん彼らは、集団心理によって異常行動にすら発展する可能性のある未成年者達を、長時間にわたり一人とか数人で束ねなければいけない激務を背負い、日々を追われていますから、時には曖昧な「やればできる」という言葉で片づけなければ成り立たないという場合もあるでしょう。しかし親はそうではありません。子ども、というひとくくりの集団ではなく、あなたの子どもである誰々という個であり人格を持った一人の人間に対して教育をしているのです。数年程度の一時の付き合いではなく、数十年という長い間にわたり親子という関係を維持していくんです。
何かをやってほしいならば「やればできる」などという本当か嘘かわからない言葉をかけることには何の意味もありません。それならば具体的かつ的確な言葉で指示する方がずっとわかりやすいでしょう。できないことをできるようになるためのアドバイスができないなら「やればできる」という言葉で適当にかたづけるべきではないのです。「ああ、大人でも親でもどうやればできるかはわからないんだ、それならそれでわからないと言ってくれれば良いのに、やればできるなんて適当な言葉でごまかして逃げているんだ」と思われるだけではありませんか。そんな適当な言葉をかけられるくらいなら、一緒になってどうやったらできるだろうかと悩んでもらった方が余程嬉しいことかわかりません。それでもできないことだってあるでしょう。ならばできないならできないことを受け入れられるように「私もあなたと同じようにできなくて苦労したことがあるのよ」と痛みを分かち合い、同じ目線に立って、その上でじゃあ一体どういう事ならできるか、どういう方法ならその時の状況をうまく切り抜けられるかアイディアを出しましょう。良いアイディアが無いなら無いで「できないのはつらいね、でもアイディアもないし我慢するしかないのかもしれない、つらいね」と寄り添うので構わないんです。その時はそうするしかないのかもしれないのだからしょうがないんです。我慢することが「今はできないこと」への唯一の対抗手段であるかもしれないんです。
無理矢理「やればできる」という言葉で収める必要なんてありません。そんなことをすれば子どもは「やってもできない自分はダメ人間だ」と自己否定し、つぶれてしまいます。
もう一度言います。できる人はやろうとなんて思わなくても、やる努力などしなくてもできます。「やればできる」は、できる人に言う言葉ではなく、できない人に言う言葉です。「やればできる」=「あなたにはできない」です。
やればできる、その言葉をまだ使いますか?
賢明なあなたならわかりますよね。